日ユ同祖論と騎馬民族征服王朝説が示す「空白の4世紀」の実態

 

スキタイ→匈奴→扶余

 

そもそも扶余とはどんな騎馬民族だったのかというと、その生活様式や文化はどうやら匈奴のそれに似たものであったと伝えられているのだ。

 

匈奴が活躍した時期(BC4世紀頃から5世紀)と扶余が活躍した時期(BC1世紀〜5世紀)は大きく被る。その上、活動範囲も匈奴が現在のモンゴル辺り、扶余が満州辺りとかなり近く、被っている部分もある。以下の図は匈奴と扶余のおおよその活動範囲だ。

 

XiongnuMap” by Gabagool is licensed under CC BY 3.0 を改変したもの

 

匈奴の一派が扶余になった可能性が高い。もしくはお互い別々のところから発生したのかもしれないが騎馬民族同士交流があったことは間違いないだろう。

 

前回の記事で匈奴は世界初の騎馬民族スキタイの後身であり、スキタイと同化していた古代イスラエル人が匈奴に流れたのではないかと話した。

 

今回は匈奴と扶余の繋がりを見たが、騎馬民族となっていた古代イスラエル人は匈奴から扶余に流れたのではないだろうか。

 

スキタイ→匈奴→扶余という流れにのって東へ動いていった可能性は十分にあり得る。

 

お気づきになったであろうが、もしそうなると江上氏の騎馬民族征服説とも繋がってくるのだ。

 

つまりスキタイ→匈奴→扶余→高句麗→辰国→百済→伽耶→北九州→大和という大きな東漸の流れが見えてくるのだ。

 

失われたイスラエル10支族はこの流れにのって日本という東の最果てに辿り着き、天皇に君臨したのではないか、というのが騎馬民族征服説と日ユ同祖論の組み合わせから見えてくる仮説なのだ。

 

ではその仮説がいかに正当性を持つかみていこう。

 

皇紀2660年=イスラエルの歴史

 

皇紀というのは日本書紀の記述をもとにして設定された日本の紀年法であり、初代天皇とされる神武天皇の即位の年である。紀元前660年から始まり、2018年(今年)で皇紀は2678年になる。

 

実は紀元前660年というのは北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされた直後の時期に当たっている。陥落は紀元前722年であり、紀元前660年はアッシリア帝国の治世下でイスラエル10支族が捕囚されている時期に相当する。

 

捕囚されたのは主に指導層で、捕囚されなかったイスラエル人もいたという。よってこの時期に捕囚されていなかった残党たちが新しい王朝(のちの日本)を再結成したのではないかと考えられるのだ。

 

その再結成した王朝はスキタイと合流し、新天地を求め東へいったのではないか。

 

荒唐無稽に思えるかもしれないが、それを示すような事実があるのだ。

 

歴代天皇の名前とユーラシア大陸の地名との関連

 

初代天皇の正式名称は神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコノスメラミコト)という。

 

この名前の意味は歴史学界では不可解なまま今日に至っている。しかし実はこの読みをヘブライ語とアラム語で解釈することができ「神の民によるユダヤ国家の栄誉ある初代王・サマリアの大王」という意味と読み取れる。サマリアは北イスラエルの首都のことである。

 

細かく分解すると

  • 「カム」=群れを結集する(=建国)
  • 「ヤマト」=「ヤ・ウマト」=神の民
  • 「イワレ」=ヘブライ民族
  • 「ビコ」=最初に生まれた子供=初代王
  • 「スメラ」=サマリア
  • 「ミコト」=栄光、大王

という意味であり、意訳的に「神の民によるユダヤ国家の栄誉ある初代王・サマリアの大王」と読み取れるのだ。

 

さらに、天皇の古称「ミカド(帝)」はヘブライ語に訳すと「ガド族出身の者」という意味になる。ガド族は失われたイスラエル10支族の一つだ。そして始祖ガドの長男の名前は「ニェポン(ニッポン/英語ではジェッポン)」であったという。つまり「日本(にほん、にっぽん)」の語源はヘブライ語にある可能性があるのだ。

 

他の歴代天皇にもユーラシア大陸における地名が関連すると思われる名前がある。

 

江上氏は第10代崇神天皇の和風諡号「御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)」の「ミマキイリビコ」について「ミマ+キ」に分けて「ミマ」=任那(みまな)、「キ」=都城であるとし、即ち任那の王城にいた王と解釈した。そして崇神天皇は初めて国を治めた天皇とされている。

 

つまり、初代天皇の神武の時代に北イスラエル王国の首都サマリアで失われたイスラエル民族が神武天皇を中心に再結集し、新天地を探すべくユーラシア大陸の東漸を始め、第10代天皇の崇神の時代に朝鮮半島南部の任那に拠点を置き、そこから日本にやってきて日本の天皇として君臨したと解釈できるのだ。

 

「神武東征伝説」における神武天皇は実は崇神天皇のことを指しているのかもしれない。実際に、崇神天皇をヤマト王権の初代天皇とする説があり、記紀における神武天皇と崇神天皇の事績の類似性から両者の同一人物説もある。

 

その崇神天皇が騎馬民族由来の可能性が高く、今回の記事で示したように「騎馬民族征服王朝説」と「日ユ同祖論」を矛盾なく組み合わせることができるのである。

 

そして空白の4世紀の真相を明らかにすることができるのではないだろうか。

 

だがそう断定するにはまだまだ物証が足りない。様々な角度からの検証が必要である。

 

古代日本においては中国大陸から多くの民族が渡来してきていることは誰もが認める歴史的事実だ。3〜2000年前、特に春秋戦国時代の激動がきっかけとなって多くの大陸の人々が日本列島に避難している。渡来人は基本的に戦乱や過酷な生活、差別などから逃れるために日本にやって来たようである。この渡来人の中に失われたイスラエル10支族が含まれていてもおかしくはない。

 

極東の日本はいわば様々な民族の最後の避難地といえるのだ。

 

今回は北イスラエル王国の10支族の大移動について話したが、実はそれだけでなく南ユダ王国の3支族(ベニヤミン族、ユダ族、レビ族)もまた異なるルートで東漸し、ペルシア、中国、朝鮮半島を経て日本にやって来たという説がある。

 

次回はその辺りについて話していこう。

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