日ユ同祖論と騎馬民族征服王朝説が示す「空白の4世紀」の実態

日本史には空白の100年間がある。「空白の4世紀」「謎の4世紀」と呼ばれる時代である。3世紀の日本の様子を伝える『魏志倭人伝』の後、中国の資料から姿を消した日本列島。

 

しかし考古学的にみると、その空白の時代に突然今までになかった馬具が大量に古墳に副葬され始めたことが判明している。

 

その考古学的な物証と大陸の騎馬民族とを結びつけたのが「騎馬民族征服王朝説」(正式名称:「東北アジア騎馬民族系王朝の日本征服・統一国家(大和朝廷)樹立説」)である。

 

 

その説は簡潔に述べると、大陸の騎馬民族が日本列島に侵略し、天皇として君臨したという内容で、戦後間もない頃に東大教授の江上波夫氏によって提唱されたものだ。

 

歴史の教科書には全く載っていない内容であるために俄かには信じ難い話かもしれないが、この学説は戦後の日本古代史学界に波紋を広げ、漫画家の手塚治虫はそれを題材にして『火の鳥 黎明編』を描いた話は有名である。

 

その「騎馬民族征服王朝説」と当サイトで深掘りしている「日ユ同祖論」はお互い何も関係ない。しかし、両論ともに日本の天皇家のルーツを追求する仮説であり、見方によってはお互い同士が矛盾なく情報を補完し合うように見えてくる。

 

この記事ではその両論を組み合わせて「空白の4世紀」を探っていく。

 

 

古墳に突如として現れた馬具と武器の謎

 

大陸の騎馬民族が日本を征服した重要証拠の一つとして古墳の副葬品が挙げられる。

 

前期古墳文化は鏡、玉、剣などが多く、呪術的かつ宗教的な色彩が濃いのが特徴であるのに対し、後期の古墳(4世紀半ば以降)は突如として実用的な武器や馬具が副葬されるようになった。

 

しかもそれらは当時東北アジアで活動していた東北アジアの騎馬民族のものと酷似しているというのだ。

 

画像出典:「騎馬民族征服王朝説の登場」/ 日本人の源流を探して

 

また、3世紀までの日本に牛馬がいた形跡はないのだが(『魏志倭人伝』にも邪馬台国には牛馬なしと記述されている)、後期古墳時代以降から急に多数の馬が飼われるようになったようで、それを示すように多くの馬の骨が後期古墳時代の土から発掘されている。

 

これは大陸側から馬と一緒に渡来人がやってきたと考えるほかなく、それが騎馬民族である可能性が非常に高いのだ。

 

江上波夫氏は上記の考古学的な物証から「騎馬民族征服王朝説」を唱えた。そしてその騎馬民族の正体は扶余系騎馬民族と推定した。

 

天皇になった扶余系騎馬民族

 

そもそも扶余(ふよ)とは現在の中国東北部(満州)に前2世紀頃から存在した民族で、前1世紀に国家を形成後、1~3世紀に繁栄していた。しかし、3世紀後半頃に台頭してきた高句麗や鮮卑(騎馬民族)の圧迫によって弱体化し、494年勿吉 (もっきつ) という狩猟民族によって滅ぼされた。

 

2世紀頃の東アジアと扶余の位置(パブリック・ドメイン)

600年ほど続いた国家で存続した歴史は比較的長い。

 

江上氏によると、その扶余から分派した一部の扶余系騎馬民族が満州から南下し、高句麗を建設したという。さらにその一部が「扶余」を名乗りつつ「辰国(のちに辰韓→新羅)」を、更にその一部が百済、そして伽耶(任那)を基地とした。

 

以下が476年の朝鮮半島の国の位置関係図である。

 

History of Korea (Goguryeo) 476 jp” by Historiographer, is licensed under CC BY-SA 3.0

 

最後の伽耶(任那)を基地とした扶余系騎馬民族は4世紀初めに対馬・壱岐島を経由し、九州北部に侵入した。これがいわゆる日本神話における「天孫降臨」だというのだ。

 

※『記紀(古事記と日本書紀)』における「天孫降臨」は高天の原から日向の国(現在の宮崎県)の高千穂に邇邇藝命(ににぎのみこと)が降臨したとされているが、江上氏は「高天原」=「ユーラシア大陸」、「日向」=「筑紫」とみている。

 

更に騎馬民族は北九州を征服した後は北九州と朝鮮半島南部の伽耶と併せて「倭韓連合王国」的な国家をつくるだけに留まらず、その勢力は5世紀初め頃に畿内の大阪に進出し、大和朝廷を樹立したというのだ。

 

そして天皇を中心とする政治体制を確立したのだ。

 

いわゆる記紀において初代天皇とされる神武天皇の「神武東征伝説」もこの歴史を物語っているのかもしれない。

 

ここまでが江上氏の「騎馬民族征服王朝説」の大枠である。

 

しかしこの論は完全ではなく反論も多数あることは事実である。しかし大方は合っていると私は考えている。違うところがあるとすれば大和朝廷をつくったのは騎馬民族ではなく、元々日本先住民と平和的に融合していた渡来人系の物部氏であるということだ。

 

記紀における大国主のアマテラスへの国譲りの物語がそれを示している。

 

大国主は葦原中国(地上世界)を治めていたが、高天原(天上世界)にいたアマテラスの要望により止むを得ず地上世界を譲ったという話である。この大国主が物部氏のことを示しており、アマテラスが大陸からやって来た騎馬民族(=天皇)だというのだ。

 

元々大和朝廷を支配していた物部氏が北九州からやって来た騎馬民族に屈服し、大和朝廷を譲った。その後、物部氏は天皇家を支える豪族となった。その史実を記紀は国譲り神話で表現しているのではないかという説があるのだ。

 

つまり「倭韓連合王国(騎馬民族勢力)」と「大和朝廷(物部氏勢力)」が合併し、日本列島(北海道や沖縄は除く)と朝鮮半島南部を股にかけた大王国が築かれたのだ。

 

のちの白村江の戦いにおいて天皇家が百済を援助すべく軍を向かわせたのは天皇にとって「倭韓連合王国」内の領土問題だったからだと考えると辻褄が合う。新羅・高句麗軍に負けた日本は朝鮮半島における領土を失い、それ以降の領土は今日における日本列島だけになったのであろう。

 

この話するとなると長くなるため、別の記事で詳細を話そう。

 

ここでは騎馬民族征服説と日ユ同祖論の関係性について深掘りしていく。

 

江上氏によって扶余系騎馬民族が天皇のルーツと推定されているが、この「騎馬民族」というキーワードが日ユ同祖論と繋がってくる。このキーワードから日本史を根底から覆すような裏の歴史が見えてくるのだ。

 

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