始皇帝は中国人ではなくユダヤ人説の真相

始皇帝=ユダヤ人という仮説がいかに真実性があるか検証してみようと思う。

 

秦の始皇帝がユダヤ人とする説は昔からまことしやかに囁かれていた。

 

その説には大きく二つの根拠がある。

 

①それまでの中国文化とは全く異なる帝国を築き上げた→非漢民族

②秦氏(渡来一族)=ユダヤ人説に基づくもの。秦氏は始皇帝の末裔と自ら主張している→始皇帝もまたユダヤ人

 

今回は①に焦点を絞って、秦がいかに非漢民族的であり西アジア的な国家であるかをみていき、ユダヤとの関連性も触れていく。

 

 

始皇帝、非漢民族説

 

強大な権力と軍事力を以ってして中国全土を初めて統一した秦の始皇帝。彼が非漢民族だとしたらそもそもどこからやって来たのであろうか。そのヒントの一つが司馬遷の『史記』にある。

 

 

秦王為人、蜂準、長目、摯鳥膺、豺聲、少恩而虎狼心(『史記「秦始皇本紀」4』)

 

この文は秦王政の風貌を表現しており、鼻は高く尖って、目は切れ長、胸は鷹のように突き出ていて、そして声は山犬のようで虎狼のように残忍な心を持っていると述べられている。

 

史記は同時代に生きていた人物による始皇帝を評する言葉を記しており、この文は当時の秦の軍事顧問の言葉によるものである。

 

鼻が高いことを真っ先に指摘しており、漢民族は基本的に鼻が低いため、その描写だけで漢民族とは異民族であることがわかる。

 

中央アジア人、白人(コーカソイド系)またはユダヤ人の描写であると言っても不思議ではない。

 

また、始皇帝の出自も大変怪しい。

 

彼は先代の秦王、荘襄王(そうじょうおう)の子どもではなく、実は宰相の呂不韋(りょふい)の子どもなのではないかという説があるのだ。

 

呂不韋はもともと商人で若い頃から各国を渡り歩き商売で富を築いていた。マーヴィン・トケイヤーがいうようにシルクロードの貿易がユダヤ人で独占されていたのであれば呂不韋もまたユダヤ人である可能性がある。

 

実際に彼は漢民族ではなく、羌族であった。過去の記事(『騎馬民族スキタイと同化したイスラエル10支族』)でも触れたようにチベット民族の一つ「羌族(チャン族)」はアミジャーブという失われたイスラエル10支族調査機関の研究によってイスラエル10支族の末裔ということが判明している。

 

つまり始皇帝の父が実は呂不韋ならば始皇帝もまた羌族で失われたイスラエル10支族の末裔ということになるのである。

 

呂不韋が実の父であることは『史記』の「呂不韋列伝」にも書かれている。

 

荘襄王の妃の趙姫はもともと呂不韋の愛人で、荘襄王が趙姫を見初めてしまい、呂不韋が仕方なく彼女を王に差し出したのだという。しかしその時すでに呂不韋の子どもは趙姫のなかに身籠っていたのだ。

 

呂不韋と始皇帝が実は親子で両者ともに失われたイスラエル10支族(羌族)だったのであろうか。

 

マーヴィン・トケイヤーがいうように当時のシルクロードの貿易がユダヤ人で独占されていたのであればその可能性は非常に高いが、それでは実際に西域の文化が中国にやって来ていたという物証はどこにあるのだろうか。

 

それは兵馬俑にあった。

 

ギリシャやペルシア由来の始皇帝の兵馬俑

 

始皇帝陵兵馬俑坑1号坑(パブリックドメイン)

 

中国の李秀珍研究員はBBCに

「シルクロードが開かれる前に始皇帝時代の中国と西洋の間で密接な接触があった証拠が見つかった」

と証言した。

 

ウィーン大学の教授も最近発見された像の特徴から、ギリシャの彫刻家が中国人に技術指導した可能性を示唆している。

 

更に驚くべきことに中国・西北大学の段清波教授は兵馬俑はギリシャやペルシャの彫像文化の影響を受けていることを指摘し、以下のことを述べている。

 

「兵馬俑のような、等身大でリアルな造形の俑(副葬品の人形)はそれ以前には全く出土しておらず、その後もない。まさに空前絶後の遺跡です。」

 

兵馬俑が作られる約100年前の俑の大きさは20センチ足らずで比較的シンプルな造形であった。以下の写真をご覧いただきたい。

 

画像出典:「遺跡コラム第1回  始皇帝陵」/ NHKスペシャル

この写真は戦国時代末期の秦の墓から出土された騎兵の俑である。

 

始皇帝が現れる以前はこうした人形が一般的だった。それにもかかわらず、突如として始皇帝の兵馬俑において像が「巨大化」し「写実的」になった。以下の写真がその始皇帝の兵馬俑である。

 

兵馬俑(パブリックドメイン)

 

この急激な変化の要因は外来文化の流入以外に考えにくい。

 

多くの学者が指摘するようにギリシャ、ペルシャからの文化流入してきたことはほぼ間違いないであろう。前回の記事で紹介したように兵馬俑からはペルシャ人の遺骨も発掘されていることからもそう断言できる。

 

また、始皇帝が取り入れた西域の文化は兵馬俑だけではない。始皇帝陵から発掘された青銅製の馬車もまたそれまでの中国にはなかったもので西方由来のものである。他にも中央集権的な政治体制は西方の大国の政治システムから、道路交通網の整備はアレクサンダー大王から模倣したと考えられる。

 

なぜそこまで西方由来の文化や政治システムが西方からやって来たのかは当時の時代背景を整理すると納得できるであろう。

 

始皇帝に先立つ紀元前4世紀において彫像文化が最も発達していたのはギリシャ文明であった。その文化はアレクサンダー大王の東征によって中央アジアにまで伝播したことがわかっている。

 

(以下、その東征図)

 

画像出典:「シルクロードを東へ――74 130717 青の都・サマルカンド」 / シルクロード日誌

 

その文化が中国の最も西にあった秦に伝播していたとしても何ら不思議ではないことがわかるであろう。秦はいわば中華民族からすれば辺境であり、西アジア人からすれば中国への玄関口だったのだ。

 

そもそも一般的な世界史の教科書では、シルクロードは秦のあと、前漢の時代に張騫の西域遠征によって開通されたと記載されているが、どうやら秦の時代に既に西域とのやり取りは盛んにあったうようである。

 

以上のことから秦が極めて非漢民族的かつ西方的な国であることがわかり、ユダヤ人もまたそこにいたことは時代背景的にも地理的にも蓋然性の高い説なのである。

 

この文化の流れに乗って始皇帝の実父・呂不韋も秦にやって来たのであろう。

 

呂不韋という名前の音が「レヴィ」とも解釈できることから祭祀レビ族のイスラエル人なのではないかと指摘する歴史研究家もいる。

 

では次に古代日本における渡来一族の秦氏が始皇帝の末裔でかつユダヤ人であるという説をみていこう。

 

スポンサードリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください