南朝ユダ王国のユダヤ人が辿った中国へのルート

北朝イスラエル王国と同じように南朝ユダ王国もまた他国により滅ぼされ、生き残ったユダヤ人(ユダ族、ベニヤミン族、レビ族)は東へと大移動していた。

 

どうやらペルシアを経て中国にまでやって来ていたようである。そこから朝鮮半島、日本へと流れていてもおかしくはない。

 

今回はその南朝ユダ王国の滅亡から中国への東漸の流れを追ってみよう。

 

 

バビロン捕囚されたユダヤ人と東ユダヤ人

 

北朝イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされたのに対し、南朝ユダ王国はアッシリアに代わって台頭してきた新バビロニア王国によって滅ぼされた。

 

紀元前587年、新バビロニア王国の軍勢は首都エルサレムを包囲し、ソロモン神殿を徹底的に破壊し、ユダ王国を滅ぼした。生き残った民衆は新バビロニアの王ネブカドネザル2世により捕虜としてバビロニア地方へと連行される。世にいう「バビロン捕囚」だ。

 

『バビロン捕囚』ジェームズ・ティソ作(パブリック・ドメイン)

 

ユダ王国は北朝イスラエル王国と同様に絶対神ヤハウェより禁じられていた偶像崇拝に陥っていた。捕囚された民衆はユダ王国の滅亡の原因は神との契約を破った罰だったからだとし、反動として偶像崇拝を徹底的に忌み嫌うようになった。

 

現在のユダヤ教が事実上形成されたのはこの頃である。

 

バビロン捕囚は約50年にも及んだが、新しくオリエントに台頭してきたアケメネス朝ペルシアが新バビロニアを征服し、キュロス大王は捕囚されていたユダ王国の人々を解放した。(キュロス大王は旧約聖書でも「解放者」として讃えられている)

 

さらにキュロス大王はユダの人々に対して故国に戻ってエルサレム神殿を再建することも許可したのである。

 

これ以降、南朝ユダ王国は単に「ユダヤ」と呼ばれるようになる。紀元前2世紀にローマに滅ぼされるまで国は続いた。(ちなみにユダヤ人とは広義の意味ではイスラエル人すべてを指すが、狭義では南朝ユダ王国の民であったユダ族とベニヤミン族、レビ族のことを指す。文脈によって異なるので注意されたい)

 

当時のオリエントの国々の位置関係は以下の通りである。

 

画像出典:「新バビロニア」/ 世界の歴史マップ

 

ここで重要なことが「バビロン捕囚」から解放された民衆すべてが故国に帰還していないということだ。

 

長い歴史の中で50年というと短く思えるが、2世代は経過していることになる。もちろんバビロニア地方で生まれたユダヤ人も少なからずいて、その人々からすればエルサレムがあるパレスチナ地方は祖父母の故郷であって、見たことも住んだこともない祖先の地へと戻ろうという思わなくても当然のことである。

 

さらに捕囚されていたからといって新バビロニア王国の繁栄のなかで生活していたわけで、奴隷身分といえどそれなりの生活を享受していたようである。

 

そのような理由からバビロニア地方に残ったユダヤ人も数多く存在していた。

 

このように帰還しなかったユダヤ人は「東ユダヤ人」と呼ばれる。

 

アケメネス朝ペルシアから中国に渡ったユダヤ人

 

新バビロニア王国に代わってバビロニア地方を支配したアケメネス朝ペルシアは基本的にユダヤ人に対して寛容であった。同国の国教はゾロアスター教であったのだが、異邦人に対しては信仰を強要せず、ユダヤ人に対しても彼ら独自の宗教を容認した。

 

信仰の自由を認められたユダヤ人は栄えある国際都市バビロンにおける生活を大いに享受していた。中には知識レベルの高さを買われ政治の高官に採用されるものもいた。

 

ユダヤ人はもともと勤勉で律法書の「トーラー」を読むために小さい頃から読み書きを教わっていた。そのため基本的に知識レベルが高かったのである。それは現代でも同じことが言えるかもしれない。

 

ユダヤ人は政治や行政にも深く関わり、アケメネス朝ペルシアに馴染んでいたようだ。事実、ペルシアの流れを汲むイランには現在数多くのユダヤ人がいる。

 

アケメネス朝における東ユダヤ人やペルシャ人の一部が更に東へと移動し、中国へと至っていた可能性がある。それを指し示すように秦の始皇帝の兵馬俑からペルシャ人の遺骨も発掘されているのだ。

 

ペルシャ人が中国まで来ているとならば、ペルシャ人と同じ国にいたユダヤ人がいても不思議ではない。

 

東洋史学者の三上次男氏は東西交流の研究(海のシルクロード)をしていたことで有名であるが、氏によれば紀元前5世紀〜前4世紀頃の中国は一般的に思われている以上に活発な東西交流をしていたと指摘している。

 

西域の文化の流入とともにユダヤ人が来ていてもおかしくはない。

 

大帝国を築いたマケドニアのアレクサンダー大王によってつくられた幹線道路を通って商人が帝国内を自由に行き来し、交易が非常に活発化していたが、その商人の中に商才に長けたユダヤ人が含まれていたのは言うまでもない。

 

以下はアレクサンダー大王の東征図である。

画像出典:「シルクロードを東へ――74 130717 青の都・サマルカンド」 / シルクロード日誌

 

ユダヤ人の著者マービン・トケイヤーの著書『ユダヤと日本 謎の古代史』(産業能率大学出版)によれば、古くからシルクロードの商人はユダヤ人に占められており、ヨーロッパへ絹を運んでいたのはユダヤ商人だったようである。

 

 

以下はその本の一部の引用である。

 

「絹の貿易商人と絹を加工する職能技術者のすべてはユダヤ人だったのである。二千五百年前のことである」(マービン・トケイヤーの著『ユダヤと日本 謎の古代史』産業能率大学出版)

 

またこのような記載もある。

 

「古代中国においては、紀元前三世紀から西暦三世紀にわたる漢王朝において、すでに中国各地にユダヤ人の居留地があったことが、古代の石碑に刻まれた記述から判明している」(マービン・トケイヤーの著『ユダヤと日本 謎の古代史』産業能率大学出版)

 

どうやら南朝ユダ王国由来のユダヤ人たちが中国にまで来ていたのはほぼ間違いないようである。

 

中国から朝鮮半島、そして日本にやって来たという可能性も否めない。

 

そのヒントは実は秦の始皇帝と古代日本の渡来一族、秦氏にあった。

 

始皇帝の出自はどうやら中国ではなく西域からのようであり、実はユダヤ人なのではないかという驚くべき説がある。

 

これも眉唾モノと思われがちであるが、よくよく調べてみるとユダヤ人である可能性の方が高いように思えるのだ。

 

そして秦の始皇帝を調べていくと、古代日本に渡来し様々な活躍を見せた一族、秦氏との関連性も見えてくる。

 

端的にいうと日本にユダヤ人が秦氏としてやって来た可能性があるのだ。

 

では次回は「ユダヤ人-始皇帝-秦氏」この三つのキーワードのつながりをみていこう。

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南朝ユダ王国のユダヤ人が辿った中国へのルート」への1件のフィードバック

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