ナポレオンのエジプト遠征の裏に潜むフリーメイソンの意図

フランス革命後、扇動者であったフランス大東社のメイソンたちは内紛を繰り返し、多くの中心メンバーが失脚していった。

 

フランス全体における主導者が不在で不安定な世情の中颯爽と登場し、フランスの救世主となったのがかの有名なナポレオン・ボナパルトである。

 

今でも英雄視されるナポレオンであるが、実は彼もまたフリーメイソンの一員であったという説がある。

 

 

そういわれる根拠として彼の周りに多数のメイソンが存在したことに起因する。

 

ナポレオンの側近だった元帥たちの25人中17人がメイソンだったともいわれ、実の兄弟をフリーメイソンの高位職にもつけている。兄のジョゼフをフランスの大東社グランドマスターに、弟のルイは副グランドマスターにといった具合に。

 

ナポレオンもメイソンだったという確たる証拠はない。しかし、少なくともメイソンの力をうまく利用しようとしていたのは間違いないだろう。

 

また、ナポレオンのエジプト遠征はイギリスのインドへのルートを遮断することと植民地支配と交易の目的もあったが、その裏にはフリーメイソンの意図も大きく関わっていた。

 

というのも、1798年に始まったエジプト遠征のメンバーの中には約200人の学術調査団が同行し、その中には多くのフリーメイソンが混じっており、彼らがピラミッドの内部を調査していたのである。

 

フリーメイソンはそれはピラミッドが単なる王の墓ではなく、太古の智慧を蓄えた神殿であることを知っており、いわば自らの思想のルーツを探るための遠征でもあった。

 

エジプト遠征においてオスマン帝国軍とイギリス軍に負けて敗走したものの、学術的な収穫はたくさんあった。

 

それが有名なロゼッタストーンであり、他にもルクソールにあるカナルック神殿や王家の谷を初めて学術的記録におさめたことで知られている。

 

面白いことにその遠征後にフランスで古代エジプトの様式や文化が流行している。

 

特に注目すべきは遠征後におけるパリの都市計画にエジプト様式が組み込まれていることだ。

 

凱旋門からルーブル美術館前のガラスのピラミッドまでの直線はパリの歴史軸と呼ばれるが、これはエジプトのルクソールの航空写真と重ねるとルクソール神殿からカルナック神殿までの配置とほぼ一致する。

 

ルーブル美術館が開館したのは1793年であるためエジプト遠征の前になるが、エトワール凱旋門は着工が1806年であるため、エジプト遠征の後になる。ルーブル美術館を起点に都市計画をつくっていったのであろう。

 

実際パリの都市計画はルイ14世の時に始まり、ミッテラン大統領の時に新凱旋門(グランダルシュ)と、ルーブルのガラスのピラミッドが作られるまで約300年かかって完成している。エジプト遠征後にその都市計画はパリをエジプト化することに変わっていったといえよう。

 

それを示すようにパリの歴史軸の直線上のコンコルド広場にはかつてルクソール神殿にあったオベリスク(クレオパトラの針と呼ばれる)が建っている。

 

元々はルクソール神殿の入り口に対で置かれていたものであるが(もう一本はルクソール神殿に残っている)、1826年に近代エジプトの父ムハンマド・アリーに贈られた。それはあるフランスの海軍技師によるムハンマド・アリーとの1年間にも及ぶ長い交渉の結果得られたものであるため、パリのエジプト化計画は相当な執念を感じざるを得ない。

 

以上のことを踏まえると、パリはフリーメイソンによって中世から現代にかけてエジプトの古代都市ルクソールを再現するように設計されたといえよう。19世紀以降その計画がフリーメイソン内で現代まで連綿と受け継がれていたと考えればそれも不思議な話ではない。

 

彼らの理想世界は繁栄していた古代エジプトにあり、それをパリにも取り込もうとしたのであろうか。それとも他に意図があったのであろうか

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